お知らせ
- 創業75周年
創業ヒストリー
【 エピソード② 】
- 戦火を越えて ― 命の重みを知る創業者の原点 ―
タローファームの創業者・小川幸男は、1925年生まれ。
5人兄妹の次男として育ち、15歳のときに満蒙開拓青少年義勇軍として満州へ渡りました。
ホウテン(奉天)で開拓に従事しながら、将来は獣医師を志していました。
しかし、時代は戦争へと傾きます。
終戦後、幸男はシベリアに抑留され、極寒の地で過酷な強制労働に従事しました。
伐採作業中の事故で脊髄カリエスを患い、生死の境をさまよいながらも、仲間と支え合い生き抜きました。
ある上官が、自らの命の短さを悟り、幸男に残した言葉があります。
「落ちぶれて、袖に涙がかかるとき、人の情の奥ぞ知る」
粗末な食事を分け合い、命をつないだ日々。
この言葉は、幸男のその後の人生の支えとなりました。
- 帰還、そして母の涙
戦後、奇跡的に日本へ帰還。
舞鶴港に降り立ち、長い旅路の果てに家族と再会します。
帰郷後、母・おきもが幸男の体を洗った桶には、無数のシラミが浮かびました。
母はその光景に言葉を失い、ただ静かに涙を流したといいます。
当時、幸男の体は大病の後遺症で無理がきかない状態でした。
この後遺症は晩年まで続くこととなり、幸男の人生に戦争の傷痕を深く刻むこととなります。
ただ、戦後の激動期、帰還した者には仕事もなく、
上田から伊那まで約90kmを自転車で通い、下働きをしながら生計を立てました。
- 養豚との出会い ― 命を育てる仕事へ
1950年、地元農協の畜産技術員・白井氏のすすめで、幸男は養豚を始めます。
当時は「血清豚」と呼ばれる豚の生産が中心で、餌は地域の残飯。
幸男は天秤棒を担ぎ、片道5kmの道のりを毎日歩いて餌を集め続けました。
大病の後遺症を抱えながらも、幸男は「豚を育てる仕事」に誇りを持ち、
ひとつひとつの命と真摯に向き合いました。
- 親子で支えた農場
体の不自由な父に代わり、息子の幹雄は小学生の頃から家業を手伝いました。
重たい餌袋を運び、豚の世話を欠かさずこなす日々。
「父を楽にしてあげたい」――その想いが、幼い幹雄の背中を押していました。
家族の関係は決してきれいごとではありません。
それぞれの世代に葛藤と闘いがありながらも、互いを支え合い、
本気で生き抜く時間を重ねてきました。
- 激動を生き抜いた、折れない心
戦争、貧困、病、そして家族の試練。
創業者・幸男が生きた時代は、まさに激動の時代でした。
その中で育まれたのは、
家族を想い、生活を守り抜くための折れない気持ちと信念の強さ。
どんな困難の中でも前に進む強さこそ、タローファームの原点です。
当初は“生きるための仕事”だった養豚も、
時間を重ねるうちに、
「生きる意味」へと変わっていきました。
- 誇り高い産業を、次の時代へ
激動の中で出会ったこの仕事――
それは、家族を支え、人を支え、地域を支える、誇り高い産業です。
その精神は、幹雄へ、そして哲生の世代へと確かに受け継がれています。
どんな時代であっても、「豚を育て、支える」という原点は変わりません。
タローファームの75年。
それは、家族と地域がともに歩み、養豚という業を、絶やさずつないできたた年月です。
この想いを胸に、私たちは次の100年へと進んでいきます。